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一乗院平等寺

閻魔寺

 閻魔寺の閻魔堂は、明治時代に廃仏棄釈で無くなってしまった持明院持ちのお堂であります。持明院の場所は膝折町2丁目の中村屋の後方にありました。今でもその付近の入り口の地名は大門と言い、持明院の名残りを遺している。現在は閻魔堂だけが現存している。仏像は江戸時代初期のものが多く、その由緒深さが知られる。

閻魔大王(閻魔様)

「嘘(うそ)をつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ」と昭和30年以前の子ども達は親からよく言われ、おどろかされたものです。閻魔様は恐ろしい顔をした地獄の門番のように考えられていますが、死ぬと閻魔様の前に引き出され、生前に犯した罪業によって、堕ちていくところが定められるように言われますが、本当は我々を地獄に堕とすのは閻魔様はなく、我々自身によります。閻魔様は我々が犯したかどうかの罪の有無、軽いものか、重大な罪かを公正に判断する判事の役目をしておられます。
閻魔様のまわりには、鬼の獄卒ばかりでは無く、倶生神と闇黒童子がいます。倶生神は、私達がこの世に生まれると同時に生まれて、いつもその人の肩の上にいて普段日常の行為を一つ一つ木札に書き付けておきます。そして死んだ時この木札を閻魔王庁に届けて、闇黒童子がこれを記録した「エンマ帳」を読み上げて、その罪業によって、閻魔大王が「どこどこ行き・たとえば焦熱地獄、冷寒地獄とか、餓鬼世界とかに」行き先を判定するのです。この閻魔様は一人ではなく、他に9人の冥王がいて、死ぬと七日目ごとにその一人一人の王の前に出て裁きを受けます。閻魔様は五・七日忌(35日忌)の時ですが、そのためにこの世に残っている家人や縁者に、死んだ人の罪が少しでも軽くなるようにと、七日目、七日目の法要を行うように仕向けます。閻魔様は恐ろしい顔をしていますが、実はやさしい地蔵菩薩の化身で、心の中では「もうこんな罪悪をして、こんな所に来るのではないぞ」と叫びながら、再び罪悪を作らせないように恐ろしい顔で叱咤しているのです。1月16日と7月16日は地獄の釜の蓋の開く日で、地獄の休日です。ほっとしている閻魔様を怒らせないように、身心を慎みましょう。(閻魔寺蔵)

お地蔵さま

 地蔵の名の起こりは人々の苦しみや悩み、願いごとなどすべて叶えてくださるという大悲の心が、ちょうど大地の中にあらゆるものの「いのち」を育む力が蔵されているように、人々を慈しむ心を無限にもっておられると言うことから「地蔵菩薩」と言う名が付けられました。お地蔵さまはその願いのように、人々の苦しみや悩みを取り除き、願いごとを叶えて下さると同時に、死んでいった後の世までも慈悲の手を垂れてくださいます。
人間はこの世の行いの報いとして、死んだ後に6つの世界にそれぞれ生まれます。これを「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」の六道を言います。特にこのうちの「地獄」「餓鬼」「畜生」の3つ世界は苦しみの責め苦にあうだけの世界ですが、このような処にもお地蔵さまがあらわれて、その人が懺悔し、心が覚めた時に救ってくださります。『地獄に仏』とはお地蔵さまのことです。

赤仁王様

閻魔寺の赤仁王さまです。仁王さまと親しまれ佛法を守護する誓いをたてられた像で、正式には左の口を開けている「阿」像を密迹金剛、口をぎゅっと結んでいる「吽」像を那羅延金剛と呼びます。お経の中に、昔、むかし、この世をすべてを統べる転輪聖王に、勇郡という王さまがいました。王さまには、千人の太子と法意と法念という2人の王子がいました。
千人の太子は、次第に成仏して「賢劫千仏」と言われる千人の仏になられ、2人の王子のうち、法意王子は金剛力士となって常にこれらの仏さまに親近してお仕えする事を誓い、法念王子は梵天王となって、千仏の仏さま達が自分の悟られた法を人々に伝えて下さるようにお願いする事を誓った。ととかれています。法意王子が密迹金剛力士となって仏法を守護し、お寺の門前に安置されるようになったのです。「阿」「吽」の仁王さまは二体別のものではなくて、本当は一体におさまるものなのです。それこそ『阿吽」の呼吸で、仏法を守護しておられるのです。(閻魔寺内)

閻魔寺の仏様


写真左から「奪衣婆坐像」「如来坐像」「馬頭観音様」

奪衣婆は冥土の入口にある三途の川の鬼婆で、樹下にいて亡者の衣服を剥ぎ取って、樹上の懸衣翁に渡し、翁はそれを枝にかけて罪の軽重を計る閻魔様の陪審員みたいなお方である。形状は粗末な衣をまとい。胸元を緩めて萎えた乳房をあらわにし、長い髪を両肩から背中に垂らし、細い紐状の鉢巻をしている。眉を寄せ口を開いて凄まじい形相をしています。(江戸時代作)