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一乗院平等寺

み仏のご案内

ご本尊様/十一面観世音菩薩

 当山のご本尊様は十一面観世音菩薩様であります。江戸時代に安置され「観音寺」と言われる由縁です。観音様の頭の所に十一のお顔がある観音様を「十一面観音」と言います。人間にも幾つもの顔があります。泣いている時の顔、笑っている時の顔、すましている時の顔、怒っている時の顔など幾つもあります。 観音様のお顔の前のところに三つの小さいやさしい顔(慈面)その左には怒った顔をした三つの顔(瞋面)正面から右に牙を出している三つのお顔(白牙上出面)そして真後ろに大笑いしているお顔(暴大笑面)、これらの十の顔の中心に正面を向いている仏様のお顔が一つで十一面ですが、観音様のお顔おを入れれば十二のお顔を持つ観音様です。正面の三つの慈面は、素直に仏様の教えに従っていく人々に対して手は、慈悲の心で持ってみ守り、教化して楽を与える。左の怒っている瞋面は、悪いことをしたり、或いは仏様の教えを信じようとしない者に対して、大悲の心から怒り叱って、その心を改めさせようとしているのです。右の牙を出している面は、善い行いをしている人に、さらに仏道に進ませようと「よくやった」と讃えてやっている顔で、後ろにある大笑いをしている顔は、善いことも悪い事もたいして出来ず、いつもふらふらしている者に「そんなへッピリ腰でどうするんだ」と笑い飛ばして、悪に向わせないようにしているのです。そして頂上にある仏さまの顔は、仏様の教えに従い人々と共に歩んで行こうと志している人に対して、教えを説いて仏道を極めさせるためです。
 これらの十一面のそれぞれの顔は皆この観音様の慈悲の心を表したものですが、それはとりも直さず 仏さまの心でもあります。丁度鏡に映る一つひとつの顔が、あなたの顔であるように・・・。(一乗院本堂ご本尊)

朝霞観音像

 朝霞観音は、昭和63年12月18日現董が先代照與和上追薦の為に建立聖置を発願し、石造仏師長岡和慶師に依頼し造像しました。像の本体は高さ3メートル余りで、全体で5メートルを越す石像であります。大本山高尾山薬王院の31世貫首「山本秀順大僧正猊下」に命名して頂き、『朝霞観音』と尊称します。仰ぎ願わくは衆生の現当二世の願いの成就と、ご加護を垂れ給う事を祈念致します。経に「もし無量百千万億の衆生ありて諸々の苦悩を受けんに、観世音菩薩この音を聞いて一心に称名すれば、観世音菩薩は即刻にその音声を観じ、皆解脱する事得しめん」と説かれております。どうぞお参りをして下さい。(一乗院墓地山内)

聖観世音菩薩(慈母観音)

 観音様の本名は「観世音菩薩」或いは「観自在菩薩」とお呼びします。観音様のことを説いているお経は『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』、一般には『観音経』があります。
 観音様は仏さま、如来様になるべき資格を具えた方ですが、菩薩となって私達凡夫を救うために如来とならず、いつも私達の身近なところにいて、教えを広め伝えることを誓われました。「観世音」は「世の音を観る」とも読めます。観音様とは「世の人々の声をはっきりみきわめる方」で、観音様が人々を苦しみや災難から救い、願いをかなえて下さり、一人でも多くの人を仏様の道に導こうという願いがあります。そのために観音様はその人にふさわしい三十三の姿に身を変えて現れると説かれています。ある人には幼い子どもの姿で、ある人には美しい女性の姿で、ある人には仏様の姿で、あるいは看護士さんの姿でと言うように様々な姿で現れて人を導きます。三十三身と言うのは、あらゆる姿になっているという意味であります。
 また観音様はただ優しく、なんでも願い事を適えて下さるとは限りません。ある時は恐しい顔をして、叱りつける事もあります。それがその人のためだと考えれば、願いごとを適えて下さらないときもあります。それもすべて観音様の大きな慈悲であります。もしあなたに人間の生き方、人生のあり方、生きる勇気、生きていることの素晴らしさ、有り難さ、そして仏様の教えの一言でも教えてくれる人がいたら、その人はきっと観音様に違いありません。(仏さもの履歴書・市川智康著抜粋) この観音様は人々に潤いを与えてくれる慈母観音様です。(一乗院境内)

金剛力士像

 仁王さまと親しまれ佛法を守護する誓いをたてられた像で、正式には左の口を開けている「阿」像を密迹金剛、口をぎゅっと結んでいる「吽」像を那羅延金剛と呼びます。お経の中に、昔、むかし、この世をすべてを統べる転輪聖王に、勇郡という王さまがいました。王さまには,千人の太子と法意と法念という2人の王子がいました。千人の太子は、次第に成仏して「賢劫千仏」と言われる千人の仏になられ、2人の王子のうち、法意王子は金剛力士となって常にこれらの仏さまに親近してお仕えする事を誓い、法念王子は梵天王となって、千仏の仏さま達が自分の悟られた法を人々に伝えて下さるようにお願いする事を誓ったと、説かれています。法意王子が密迹金剛力士となって仏法を守護し、お寺の門前に安置されるようになったのです。

「阿」「吽」の仁王さまは二体別のものではなくて、本当は一体におさまるものなのです。 それこそ『阿吽」の呼吸で、仏法を守護しておられるのです。(一乗院境内)

弘法大師

 お大師様と言えば、空海上人、弘法大師をさすほどで、日本の歴史上最大の偉人の一人として敬われ信仰されております。空海上人は奈良時代末期、西暦774年(宝亀5年)6月15日に今の香川県善通寺市で、仏縁深きお子としてお生まれになりました。幼名を真魚(まお)と言います。神童と称せられた空海上人は、12歳の時に官吏になるべく都に上り、叔父の阿刀大足について、儒学を初め歴史や文学を学んだ。15歳の時に長岡の新京にて勉学し、3年後唯一の学府である大学に合格し哲学や儒教等を修められたが、その内容に疑問を抱き、心の満足を得られなかった。折にふれ奈良や近畿周辺の諸寺を尋ね、仏教の聖典を数多く読まれた。中でも奈良の石渕寺の勤操大徳の説かれる、不思議な真実の正しい道筋を説かれる教えに耳を傾けた。
 西暦793年の20歳の時、和泉槙尾山寺で出家得度し、名前を教海と改名し、その後如空とされ、東大寺で具足戒という僧侶として護持すべき戒律を受けました。その後更に「空海」と改められました。その頃出家の志を述べた「聾瞽指帰」2巻「三教指帰」3巻を著作され、特に「三教指帰」は素晴らしい思想劇で、今日に於いても高い評価を得ている。出家後、奈良の南都六宗を習得された。その間記憶力増進の秘法と言う「虚空蔵求聞持法」を修し、人跡まれな山林で肉体の超越、瞑想に努め、仏陀釈尊の苦行を偲ばせる一心なる難行苦行をされた。しかしこれまでの経典や修行に疑義を持ち、他に真実の教えがあるはずだと考えていたが、遂に大和の久米寺の東塔に埋もれていた「大日経」なる密教の根本聖典に出遭い、経の中に「如実知自心」なる、実の如く自心を知ることが大事であると、卒直に解かれているのを見て、「これこそ」と感嘆し、ここに生涯を目指すものを見出したのであります。以後大日経の研究にそして実践修行すること数年に及びました。そんな中で難解な象徴する事物や、サンスクリット(梵字)など当時の日本人の誰も知らない文字の解明や、その法を正しく継承するのでなければ、生きた教えとならない事を悟り、当時の唐(中国)の国に留学すべく決心し準備をされた。
 時熟し、西暦804年5月遣唐使の一行に加わる事が出来、最澄上人(天台宗の祖師)等とともに渡唐した。途中台風に遭って4隻の船のうち2隻が遭難難破したが、空海上人等の乗船した船は奇跡的に助かり、今の台湾の北方の福建省に漂着し、空海上人の漢語力により無事上陸許可が下りて唐の国に入る事が出来た。そして陸路1000キロの行程をし、当時の世界文化の中心地である長安(現在は西安)の都に苦労して到着された。1年後の6月、密教の正統者である、清竜寺の恵果阿闍梨と劇的な対面をされ、短期間の内に真言密教の教相(理論)と事相(儀礼)を伝授修得され、恵果阿闍梨の三千人以上の門弟の中で、ただ一人密教の教えを正式に継承する「伝法灌頂」を授けられ、「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の称号を付与され、ここに完全なる正統者としての伝統を受け継ぎました。そして勉学修行の合い間に唐の国の先進的な医学や土木学、文学や一般文化など多他面に亘って知識、学識を深められました。
 帰国後空海上人は、日本に初めて伝えた経巻や宝物、文物等を「請来目録」としてまとめ、朝廷に献上報告されました。西暦807年勅命により京都に上り、11月に思いで深い久米寺にて大日経を講義された。この時が正式に真言密教を伝えた公式の日であり、真言宗の立教開宗の年と定められました。
 西暦809年嵯峨天皇が即位され、空海上人を京の高雄山寺の住職に任じられて、唐文化を取り入れた新しい日本の建設に指導協力するように要請されて国づくりに参加されました。14年後東寺を賜わり、総ての人々がこの世で幸福になれるような理想社会を実現すべく根本道場を開かれました。又鎮護国家や国の安寧を祈る道場でもありました。
 以後多忙な毎日でありましたが、自身の修業を怠ってはならない仏教者として、内面的な宗教体験を深めるために、深山幽谷な高野山に一寺を建立し、公的活動の合い間を見ては、座禅修行し霊的体験を深められました。又単に宗教的活動に留まらず、地方に出て広く民衆と接し、温泉治病、薬草の用い方や、麦の種を普及させたり、石炭石油の利用法等を教えました。更に水利の便を図り、治水砂防も指導され、特に故郷の満濃池の修築工事の実績は有名であります。更に日本で初めての一般庶民の学校である「綜芸種智院」を開校された事は、空海上人が目指した「済世利民」の教えである、人々の幸福を願う理想社会実現の方便行の実践でありました。 かくして多彩な活躍をされた空海上人は、西暦835年(承和2年)3月21日高野山の奥の院にて62歳をもってご入定されました。後年西暦921年醍醐天皇の時に「弘法大師」の称号を追贈されました。

興教大師

 宗祖弘法大師ご入定後、およそ290年後の平安時代末期に、弘法大師の教えを尊びその教えを具体化して実践されたのが興教大師、覚鑁上人であります。覚鑁上人は自らその証しを示され、停滞気味な真言宗教団に息吹を入れると共に、鎌倉仏教といわれる新興宗派誕生のきっかけを作り、教学振興と仏教界刷新の風潮を遺された聖人であります。
 覚鑁上人は西暦1095年6月17日今の佐賀県鹿島市にてお生まれになりました。幼名を弥千代麿と言います。8歳の時早くも仏道を志し、9歳以後は両親の手許を離れて、一師の下で仏門にて生活し、貴くも尊い勉学修行の年月を過ごされました。師僧は真摯なこの宗教的天才児を、九州の地に留め置くべきでは無いと考えられ、15歳の時に京都の仁和寺に入寺させました。16歳の時に国家より出家得度を許可され、名を正覚坊覚鑁(かくばん)と改められました。
 この仁和寺を拠点として、奈良や近畿の諸寺で一通りの仏教教学と、真言密教の事相教相を修められました。20歳の時、幼少の頃から弘法大師の徳を慕い崇敬していた覚鑁上人は、弘法大師ご入定の高野山に入り、7.8年師を求めて法の如く修行し、真言密教の奥義を極められました。そして山内が衰退傾向にあるのを強く感じ取られ、弘法大師在世当時の教学振興と、事相興隆の学問修行道場の復活を念じました。そして人々の幸福を実現する根本道場たる伝統を再興すべく生涯の目標を定めました。齢30代から40代の前半にかけて、この目標に沿って高野山の地に大伝法院を始めとする堂塔伽藍を建立し、真言密教における大事な行法である「伝法大会」を241年ぶりに復興されました。これにより山内は俄かに活況を呈し、天皇をはじめ多くの篤信者が覚鑁上人を慕って高野山を訪れ、仏法に帰依しました。
 しかしながら覚鑁上人の名声が高まるにつれ、これに対して快く思っていない旧習慣を宗とする集団の圧力を嫌い、仏教者としてむやみに争う事の愚かさを身上とする覚鑁上人は、一山の長としての公職を潔く捨て去り、32歳の時に開山した和歌山の根来山に居を移されました。根来山に移られて3年後、大円明寺と大神宮字を創建され、自ら志願とする「伝法大会」を再び興して、「弘法大師に帰れ」を目標として、庶民の幸せと安楽を願い、教学の研鑚と著述、弟子の指導育成に尽力されました。
 西暦1143年12月12日覚鑁上人は、多年に亘る疲労が漸く四体を侵し始め、遂に49歳を一期 として根来の地にて入滅されました。この根来山が新義真言宗の発祥の地でありまして、真言宗智山派、豊山派の派祖が出ております。後年江戸時代の元禄3年に、覚鑁上人の行跡と人格に対して「興教大師」の大師号が贈られました。覚鑁上人は真言宗の中興の祖と称されます。

薬師如来

 お薬師さまと呼ばれ、その名の通り病を治して頂ける仏様として、昔から信仰を集めていました。お薬師様が仏様になられる前に、菩薩として修行している時に12の願いを立てられました。それは光輝く自分と同じように、みんなを仏様にさせようとしました。欲望や迷いの中にさまよっている者の目を開かせて、どんな事でも思いのままに出来るようにさせ、心を安らかにさせよう、悪いことをやめさせ、食べ物や衣服などは十分に与えよう、刑罰の災難や苦しみを除き、教えを与えて心身を安楽にさせてやろう。特に「病が身に迫ってきて、誰も助けてくれる者もいない。食べる物も、医者も、薬も、家も、親もなく、ただ貧しくて耐えられない時でも、薬師の名号を一度でも聞けば、病いは治り、身も心も安らかになって、家財も整い豊かな生活が出来るようにしよう」という誓いを持った仏様です。左手に薬壺を持っておられます。一乗院の薬師如来は朝霞市周辺の木像の仏様では、年代が一番古い木造仏で、室町時代に作られたものです。(一乗院本堂蔵)

子育て地蔵様

 お地蔵さんを身近な仏様にしたのは、賽の河原の悲しい物語です。親子の縁が薄くて幼くして死んだ赤ちゃんや、まだこの世の陽の目をみない内、お母さんのお腹の中で逝いていってしまった水子たちが、三途の河のほとりで、「一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため」と小石を積んではこの世にいる親や兄弟のために、紅葉のような手を合わせて祈り、積んでいる所に鬼たちがやってきて、情け容赦なくせっかく積んだ石の山を打ち壊し子ども達を責めます。いくら泣きわめいても誰一人助けに来てくれません。そのまま泣き寝入ったところへお地蔵さまが現われて、衣の下に抱きいれて、「今日より後は我こそ冥土の親と思うべし」と救って下されます。親にとっては身の千切れる思いで送ったわが子の行く末を、せめてお地蔵さまにすがってお願いするより仕方がないというのが悲しい親心です。子どもが使っていたよだれかけをお地蔵さまにお供えして、わが子の冥福を祈る切ない親心です。今の世の子どもを虐待する親は、無間地獄に堕ちて、あり地獄の蟻のように、上がりたくても上がれない蟻のようになります。虐待などしないで下さい。先ずはご用心ご用心です。
 さてお地蔵さんはお坊さんの姿をして左手に宝珠をの瀬、右手に錫杖をもって、いつでもどこでも苦しみ、救いを求めている者のところへ出向いて行ってやろうという慈悲の心をあらわしたものです。お地蔵さまほど、いろいろな名が付けられている仏さまはおりません。子安地蔵、子育て地蔵、子持ち地蔵、延命地蔵などたくさんあります。当寺のお地蔵さまは子安地蔵、子育て地蔵です。
 地蔵の名の起こりは人々の苦しみや悩み、願いごとなどすべて叶えてくださるという大悲の心が、ちょうど大地の中にあらゆるものの「いのち」を育む力が蔵されているように、人々を慈しむ心を無限にもっておられると言うことから「地蔵菩薩」と言う名が付けられました。お地蔵さまはその願いのように、人々の苦しみや悩みを取り除き、願いごとを叶えて下さると同時に、死んでいった後の世までも慈悲の手を垂れてくださいます。人間はこの世の行いの報いとして、死んだ後に6つの世界にそれぞれ生まれます。これを「地獄」「餓鬼「畜生」「修羅「人間」「天上の六道と言っています。ことにこのうちの「地獄」「餓鬼「畜生」の3つ世界は苦しみの責め苦にあうだけの世界ですが、このような処にもお地蔵さまがあらわれて、その人が懺悔し、目が覚めた時に救ってくださります。『地獄に仏」とはお地蔵さまのことです。

干支(生まれ年)八尊守りご本尊様


写真左から「千手観音菩薩」「虚空蔵菩薩」「文殊菩薩」「普賢菩薩」

千手観音菩薩(子歳守り本尊)

 観音様の中でも、この仏様は千手千眼観音様とも言われ、文字通り千本の手を持っておられ、その一つ一つの手には眼が画かれ、そして羂索(つな)や、仏様、弓、宝剣など色々な道具を持っていらっしゃいます。だから「千眼千首千足千舌千臂観自在」とも呼びます。千手観音様は聖観音様の変化身で、一切の人々の悩みを救い、願い事hさすべて叶えてあげようと言う観音様の大悲心を具体的な形で示したのがこのお姿です。病を治し罪障を除いて寿命をながらえ、願い事はすべてかなてくださり、ことに女性がいやになった時、男子に生まれ変わらして下さるという有り難いご利益を授けていただけると言う事です。
 ご真言 オンバザラタラマキリク 縁日毎月17日

虚空蔵菩薩(丑歳・寅歳/守り本尊)

 虚空とは、無限に大きくそしてどんな力があるものでも打ち勝つ事が出来ないほどの無尽蔵の力を持っているということです。又「蔵」とは大宝蔵のことで、どんなものでも欲しいだけのものを与える事が出来る宝があるという意味である。このことから如来虚空の蔵はすべてのものを衆生が求めるままに、自在に与えることが出来て、特に福徳と智慧を授けて下さる、極まりない力をもっているということで「虚空蔵菩薩」と名づけられました。又この虚空蔵菩薩を念ずれば記憶力が良くなって忘れず、何でも願いが叶えられると教え示します。
 ご真言 オンバザラアラタンノウオンタラクソワカ 縁日毎月13日

文殊菩薩(卯歳守り本尊)

「三人よれば文殊の智慧」といわれるように、文殊菩薩は「妙徳」「妙吉祥」「妙楽」ともいわれ、モンジュシュリーといって漢字に当てまめると、「文殊師利」「曼殊室利」で、お釈迦様の脇に侍している仏様として、白象に乗った普賢菩薩と共に、獅子の上に乗ってお釈迦様の左側に侍しています。脇侍仏というのは、仏様のお徳を象徴したもので、文殊菩薩は仏様の智慧の徳を顕わしております。この智慧は私たちがふだん使っている知識とか智恵と違い、世の中の根本を観る智慧で仏様の覚りとも言えます。災難や艱難など山坂の多い人生では あるけれども、文殊菩薩の智慧によって歩んで行けばそれが無くなる。人間の利己的な浅はかな智恵でもって生きてゆくから、災難や不幸を作って行くのである。文殊菩薩の智恵によってゆけば災難や不幸も幸せにつながって行く、それらを乗り越えることによって、人生の誠の相がどんなものであるか覚らされ、そのお蔭で真実の事が分かる。不幸や苦しみのおかげで本当の幸せを知ると、それまでの苦の茨や枳殻(からたち)も美しい花の姿となって行くのであると教え示します。
 ご真言 オンアラハシャノウ 縁日毎月25日

普賢菩薩(辰歳・巳歳/守り本尊)

 お釈迦様の脇侍として右側に控えているのが普賢菩薩です。文殊菩薩は仏様の智慧を象徴しているのに対して、普賢菩薩は仏様の慈悲行を象徴しています。普賢菩薩はサマンタ・バドラという名で、それを「遍吉(へんきつ)」とか「普賢」と訳します。「遍吉(へんきつ)」とは「みんなのしあわせ」を願っている普賢菩薩の願いであり、「普賢」の”あまねくさとれるもの”といいます。「賢」とは善い行いをする普賢菩薩の慈悲の心をもととしたすべての「行」を示しております。文殊菩薩が獅子の上に乗っているのに対して、普賢菩薩は「六牙の白象」に乗っています。象は獅子と同じようにインドにおいて最も優れた動物であり、又それが持っているところの「威力」は素晴らしく、優れた大いなる力を表象しております。そしてその素晴らしい力にあふれている6っ本の牙は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という仏教で大事にしている6つの行いを指しています。
 ご真言 オンサンマヤサトバン 縁日毎月24日


写真左から「勢至菩薩」「大日如来」「不動明王」「阿弥陀如来」

勢至菩薩(午歳/守り本尊)

 文殊菩薩と普賢菩薩は釈迦如来の脇侍として使える菩薩ならば、西方極楽浄土におられる阿弥陀様に仕える菩薩が観音菩薩と勢至菩薩です。勢至菩薩は「得大勢」「得大勢至」「大精進」とも言われます。その名の由来は、智慧の光明がさかんで、一切を照らし、迷いから離れさす事の力が大きいので、「大勢至」と名づけられたと言われます。勢至菩薩の智慧は人々を迷いから離れさせて救わずにはおかないという、意思力の重さがあるので「大勢至」といわれます。阿弥陀如来の慈悲と智力を象徴します。ことにこの勢至菩薩は、観音 様と共に、阿弥陀様のおともをして、人がご臨終の時、他の二十五菩薩と共に来迎して密厳国土に連れていっ下さる仏様です。観音様と勢至菩薩との見分け方は、観音様は宝冠の所に「化仏」と言って阿弥陀仏を戴いていますが、勢至菩薩は髻(もとどり)の中に宝瓶をつけています。そして手にはまだ開華していない「未敷蓮華」を持ち、虚心合掌(両掌をいくらかふくらませた型の合掌)をしています。
 ご真言 オンサンザンザンサクソワカ 縁日毎月23日

大日如来(未歳・申歳/守り本尊)

 大日如来とは、宇宙の総て、人間、自然、天地総ての「本質」を仏格化した仏様です。真言宗では総ご本尊様として、この大日如来から総てのものとして現れている仏様として教え示します。釈迦如来、阿弥陀如来、観音様、お不動様などの総てこの大日如来のはたらきを顕わすためにある仏様であって、その根本は大日如来であります。総てのものの本質である大日如来そのものを、色や形で表すことはできませんが、しかし人間にとっては形や色が無くてはどうにも分からなくなってしまうので、仏様の姿で表すことになり ました。ただ如来と言う時は、お釈迦様、阿弥陀様、お薬師様にしてもお衣を着けただけでお姿は同じです。そこで手の印相、持ち物でそれぞれの如来様を現して降ります。大日如来はその中の中心となる位にあるということを表現するために宝冠をつけ、髪は宝髪に結び、胸に瓔珞を飾り、腕輪をつけて菩薩のお姿をしております。
 ご真言 オンバザラダドバン 縁日毎月8日

不動明王(酉歳/守り本尊)
 お不動様と呼び親しんでいる「不動明王」は「不動金剛明王」とか「無動尊」ともいって、大日如来の命をうけて忿怒のお姿をしています。それは仏様の障害となるものを断つ使命を持ち、常に行者に仕えて仏ごころをおこさせて導こうという役目を持っています。 人々を教え導くために3つの方法が考えられた。その一つは、仏様がそのままで人々を教え導く。第2は人それぞれの環境や立場、境遇に応じて、その人に相応しい姿となってともに生活し導く。観音様や地蔵様などの菩薩さまなどです。第3は、ただ教えを説いただけではとても聞き入れようともせず、反抗する者に対して、眼をむき、歯を出して怒った姿を示して、脅しつけ、その威力でもって説き伏せる方法があります。お不動様はこの3番目の役目です。右手に剣を持ち、左手には羂索(つな)を握り、片方の目は半月に、もう一つの目はくわっと見開き、口はぎゅっと牙をむき出してくいしばり、背中には火焔を背負っているお不動様の姿は異様で恐ろしいですが、言うことを聞かないものには、力を持っています。ちょうど言うことを聞かない子どもに、父親が怖い顔をして睨み付け、叱っている姿と同じです。ただ怒るに任せて睨み付けるのでは無く「そんな馬鹿な事はするな」と、顔で怒って心で泣いているお姿です。てにしている羂索(つな)と剣は、言うことを聞かない敵を縛り上げ、時にはそのいのちをも断つ心を象徴し、それと同時に自分の欲望や迷いを断ち切り、勝手きままになりがちな己の心を縛りつける羂索(つな)と剣です。
 ご真言 ノウマクサマンダバザラダンカン 縁日毎月28日
阿弥陀如来(戌歳・亥歳/守り本尊)

 南無阿弥陀仏と念仏の代名詞になっている阿弥陀如来は、インドの言葉をそのまま移した物で「無量」と言う意味です。仏様の光明が無量であるのでアミダ(無量寿)と言います。仏様の智慧(光)も慈悲(寿)も限りなくそそがれているという事を顕わしているわけです。それで阿弥陀様を「無量寿如来」「不可思議光如来」「尽十方無碍光仏」ともいいます。数え切れない遠い過去に法蔵比丘と言う王位を捨てた修行者が、世の人々の苦しみを無くすために、一切の仏国土より優れた浄土を建立したいと言う願いをおこされ、自分が仏となって、人々の苦しみを救いその浄土に往生させて成仏させたいという事で、長い間徳行を積まれついに、西方10万億土の彼方に安楽世界の極楽浄土を建立しました。この極楽浄土は、黄金を初め七つの宝で作られたまばゆいばかりの宮殿や池に囲まれ、宝石で出来ている樹木が生い茂っています。池には色々な蓮の華が咲き乱れ、天の楽器が常に奏でられ、白鳥や孔雀などが舞い遊び、夜と昼に三度ずつ天の曼荼羅華の雨が降ってきます。香や華鬘、衣服、傘、楽器、装飾品、宮殿など欲しいだけ与えられ、食物は摂らなくても身も心も満足出来、そしていつも極楽に阿弥陀様がいて法を説いて折られ、そこに住んでいる者は身体の苦しみも、心の悩みも無くて、ただ安楽なものがあると言う理想郷であります。
 ご真言 オンアミリタテイセイカラウン 縁日毎月15日
(一乗院本堂内に安置・参考図書/仏様の履歴書より抜粋)

修行大師

弘法大師様と興教大師様の修行のお姿です。

左:興教大師、右:弘法大師

一乗院蔵什器法物

出山釈迦図(室町時代作)
「周継雪村筆」の絹本着色の出山釈迦図です。この画は釈尊の修行時のお姿で、衣の襞を細かく抑揚のある強い線で表し、面相部分は丁寧に精密に描かれております。足の爪が長く伸びているところ等は、宗風画の影響が見られる。周囲の背景は簡潔な揆墨描がなされている。 なお画面下に周継雪村の朱文字が認められる。作者の周継雪村は室町末期の画僧で法名を「周継」と言われる。雪舟に私淑し宗元画や明画からも影響を受けていると言われます。
閻魔王庁図(桃山時代後期作)
 正面に黒衣の閻魔王を描き、左右に陪臣を配し、前に前世を映し出す鏡を置き、鬼に引きずられた罪人に鏡に写った前世の悪業を見せながら判決を下す図である。 抑揚を抑えた線で全体を構成し着色が施されている。大きな掛け軸図で縦204.5cm・横148.5cmで、その中にえの大きさは、画面縦116.0cm・画面横133.0cmで当時のものとしては図抜けております。
板碑
 一乗院本堂脇の墓地の東側斜面より、室町時代の建徳期(西暦1370年頃)の銘記された板碑が百数十基発見され、朝霞市の指定文化財となっている。板碑とは板状の平らな石で作った卒塔婆であり、鎌倉時代、室町時代に死者を追善供養するために立てた者であります。上部に仏、菩薩を顕わす梵字を刻み、下部に仏像や戒名、俗名などを刻んだ。昔は今のように硬い石を刻む道具が無かったので、埼玉県の秩父から産出された青石と言うものが多く使われています。
  • 観音図
  • 般若十六善神図
  • 涅槃図
  • 三界萬霊塔
    この塔は、一時お預かりするみ魂(舎利)や無縁になったみ魂(舎利)を安置する聖塔であります。
  • 横山久子先生顕彰碑
  • 朝霞第一小学校発祥の地

 横山久子先生は、一乗院に膝折学校が併設されていた時に、県内では初めてといっていい位の女性教師として、教鞭をとっていた先生であります。惜しくも32歳で急逝してしまい、先生の才能を惜しみ。現在の三鷹市の小学校、西東京(保谷市)小学校、新座市の小学校の校長先生等が諮って、顕彰碑として建立されたものである。因みに、一乗院の客殿に膝折学校が置かれ30年に亘って教育がなされた。(現在の朝霞第一小学校発祥の地)