み仏のご案内
ご本尊様/十一面観世音菩薩
これらの十一面のそれぞれの顔は皆この観音様の慈悲の心を表したものですが、それはとりも直さず 仏さまの心でもあります。丁度鏡に映る一つひとつの顔が、あなたの顔であるように・・・。(一乗院本堂ご本尊)
朝霞観音像
聖観世音菩薩(慈母観音)
観音様は仏さま、如来様になるべき資格を具えた方ですが、菩薩となって私達凡夫を救うために如来とならず、いつも私達の身近なところにいて、教えを広め伝えることを誓われました。「観世音」は「世の音を観る」とも読めます。観音様とは「世の人々の声をはっきりみきわめる方」で、観音様が人々を苦しみや災難から救い、願いをかなえて下さり、一人でも多くの人を仏様の道に導こうという願いがあります。そのために観音様はその人にふさわしい三十三の姿に身を変えて現れると説かれています。ある人には幼い子どもの姿で、ある人には美しい女性の姿で、ある人には仏様の姿で、あるいは看護士さんの姿でと言うように様々な姿で現れて人を導きます。三十三身と言うのは、あらゆる姿になっているという意味であります。
また観音様はただ優しく、なんでも願い事を適えて下さるとは限りません。ある時は恐しい顔をして、叱りつける事もあります。それがその人のためだと考えれば、願いごとを適えて下さらないときもあります。それもすべて観音様の大きな慈悲であります。もしあなたに人間の生き方、人生のあり方、生きる勇気、生きていることの素晴らしさ、有り難さ、そして仏様の教えの一言でも教えてくれる人がいたら、その人はきっと観音様に違いありません。(仏さもの履歴書・市川智康著抜粋) この観音様は人々に潤いを与えてくれる慈母観音様です。(一乗院境内)
金剛力士像
仁王さまと親しまれ佛法を守護する誓いをたてられた像で、正式には左の口を開けている「阿」像を密迹金剛、口をぎゅっと結んでいる「吽」像を那羅延金剛と呼びます。お経の中に、昔、むかし、この世をすべてを統べる転輪聖王に、勇郡という王さまがいました。王さまには,千人の太子と法意と法念という2人の王子がいました。千人の太子は、次第に成仏して「賢劫千仏」と言われる千人の仏になられ、2人の王子のうち、法意王子は金剛力士となって常にこれらの仏さまに親近してお仕えする事を誓い、法念王子は梵天王となって、千仏の仏さま達が自分の悟られた法を人々に伝えて下さるようにお願いする事を誓ったと、説かれています。法意王子が密迹金剛力士となって仏法を守護し、お寺の門前に安置されるようになったのです。
「阿」「吽」の仁王さまは二体別のものではなくて、本当は一体におさまるものなのです。 それこそ『阿吽」の呼吸で、仏法を守護しておられるのです。(一乗院境内)
弘法大師
西暦793年の20歳の時、和泉槙尾山寺で出家得度し、名前を教海と改名し、その後如空とされ、東大寺で具足戒という僧侶として護持すべき戒律を受けました。その後更に「空海」と改められました。その頃出家の志を述べた「聾瞽指帰」2巻「三教指帰」3巻を著作され、特に「三教指帰」は素晴らしい思想劇で、今日に於いても高い評価を得ている。出家後、奈良の南都六宗を習得された。その間記憶力増進の秘法と言う「虚空蔵求聞持法」を修し、人跡まれな山林で肉体の超越、瞑想に努め、仏陀釈尊の苦行を偲ばせる一心なる難行苦行をされた。しかしこれまでの経典や修行に疑義を持ち、他に真実の教えがあるはずだと考えていたが、遂に大和の久米寺の東塔に埋もれていた「大日経」なる密教の根本聖典に出遭い、経の中に「如実知自心」なる、実の如く自心を知ることが大事であると、卒直に解かれているのを見て、「これこそ」と感嘆し、ここに生涯を目指すものを見出したのであります。以後大日経の研究にそして実践修行すること数年に及びました。そんな中で難解な象徴する事物や、サンスクリット(梵字)など当時の日本人の誰も知らない文字の解明や、その法を正しく継承するのでなければ、生きた教えとならない事を悟り、当時の唐(中国)の国に留学すべく決心し準備をされた。
西暦809年嵯峨天皇が即位され、空海上人を京の高雄山寺の住職に任じられて、唐文化を取り入れた新しい日本の建設に指導協力するように要請されて国づくりに参加されました。14年後東寺を賜わり、総ての人々がこの世で幸福になれるような理想社会を実現すべく根本道場を開かれました。又鎮護国家や国の安寧を祈る道場でもありました。
以後多忙な毎日でありましたが、自身の修業を怠ってはならない仏教者として、内面的な宗教体験を深めるために、深山幽谷な高野山に一寺を建立し、公的活動の合い間を見ては、座禅修行し霊的体験を深められました。又単に宗教的活動に留まらず、地方に出て広く民衆と接し、温泉治病、薬草の用い方や、麦の種を普及させたり、石炭石油の利用法等を教えました。更に水利の便を図り、治水砂防も指導され、特に故郷の満濃池の修築工事の実績は有名であります。更に日本で初めての一般庶民の学校である「綜芸種智院」を開校された事は、空海上人が目指した「済世利民」の教えである、人々の幸福を願う理想社会実現の方便行の実践でありました。 かくして多彩な活躍をされた空海上人は、西暦835年(承和2年)3月21日高野山の奥の院にて62歳をもってご入定されました。後年西暦921年醍醐天皇の時に「弘法大師」の称号を追贈されました。
興教大師
覚鑁上人は西暦1095年6月17日今の佐賀県鹿島市にてお生まれになりました。幼名を弥千代麿と言います。8歳の時早くも仏道を志し、9歳以後は両親の手許を離れて、一師の下で仏門にて生活し、貴くも尊い勉学修行の年月を過ごされました。師僧は真摯なこの宗教的天才児を、九州の地に留め置くべきでは無いと考えられ、15歳の時に京都の仁和寺に入寺させました。16歳の時に国家より出家得度を許可され、名を正覚坊覚鑁(かくばん)と改められました。
この仁和寺を拠点として、奈良や近畿の諸寺で一通りの仏教教学と、真言密教の事相教相を修められました。20歳の時、幼少の頃から弘法大師の徳を慕い崇敬していた覚鑁上人は、弘法大師ご入定の高野山に入り、7.8年師を求めて法の如く修行し、真言密教の奥義を極められました。そして山内が衰退傾向にあるのを強く感じ取られ、弘法大師在世当時の教学振興と、事相興隆の学問修行道場の復活を念じました。そして人々の幸福を実現する根本道場たる伝統を再興すべく生涯の目標を定めました。齢30代から40代の前半にかけて、この目標に沿って高野山の地に大伝法院を始めとする堂塔伽藍を建立し、真言密教における大事な行法である「伝法大会」を241年ぶりに復興されました。これにより山内は俄かに活況を呈し、天皇をはじめ多くの篤信者が覚鑁上人を慕って高野山を訪れ、仏法に帰依しました。
西暦1143年12月12日覚鑁上人は、多年に亘る疲労が漸く四体を侵し始め、遂に49歳を一期 として根来の地にて入滅されました。この根来山が新義真言宗の発祥の地でありまして、真言宗智山派、豊山派の派祖が出ております。後年江戸時代の元禄3年に、覚鑁上人の行跡と人格に対して「興教大師」の大師号が贈られました。覚鑁上人は真言宗の中興の祖と称されます。
薬師如来
子育て地蔵様
さてお地蔵さんはお坊さんの姿をして左手に宝珠をの瀬、右手に錫杖をもって、いつでもどこでも苦しみ、救いを求めている者のところへ出向いて行ってやろうという慈悲の心をあらわしたものです。お地蔵さまほど、いろいろな名が付けられている仏さまはおりません。子安地蔵、子育て地蔵、子持ち地蔵、延命地蔵などたくさんあります。当寺のお地蔵さまは子安地蔵、子育て地蔵です。
地蔵の名の起こりは人々の苦しみや悩み、願いごとなどすべて叶えてくださるという大悲の心が、ちょうど大地の中にあらゆるものの「いのち」を育む力が蔵されているように、人々を慈しむ心を無限にもっておられると言うことから「地蔵菩薩」と言う名が付けられました。お地蔵さまはその願いのように、人々の苦しみや悩みを取り除き、願いごとを叶えて下さると同時に、死んでいった後の世までも慈悲の手を垂れてくださいます。人間はこの世の行いの報いとして、死んだ後に6つの世界にそれぞれ生まれます。これを「地獄」「餓鬼「畜生」「修羅「人間」「天上の六道と言っています。ことにこのうちの「地獄」「餓鬼「畜生」の3つ世界は苦しみの責め苦にあうだけの世界ですが、このような処にもお地蔵さまがあらわれて、その人が懺悔し、目が覚めた時に救ってくださります。『地獄に仏」とはお地蔵さまのことです。
干支(生まれ年)八尊守りご本尊様
千手観音菩薩(子歳守り本尊)
観音様の中でも、この仏様は千手千眼観音様とも言われ、文字通り千本の手を持っておられ、その一つ一つの手には眼が画かれ、そして羂索(つな)や、仏様、弓、宝剣など色々な道具を持っていらっしゃいます。だから「千眼千首千足千舌千臂観自在」とも呼びます。千手観音様は聖観音様の変化身で、一切の人々の悩みを救い、願い事hさすべて叶えてあげようと言う観音様の大悲心を具体的な形で示したのがこのお姿です。病を治し罪障を除いて寿命をながらえ、願い事はすべてかなてくださり、ことに女性がいやになった時、男子に生まれ変わらして下さるという有り難いご利益を授けていただけると言う事です。
ご真言 オンバザラタラマキリク 縁日毎月17日
虚空蔵菩薩(丑歳・寅歳/守り本尊)
虚空とは、無限に大きくそしてどんな力があるものでも打ち勝つ事が出来ないほどの無尽蔵の力を持っているということです。又「蔵」とは大宝蔵のことで、どんなものでも欲しいだけのものを与える事が出来る宝があるという意味である。このことから如来虚空の蔵はすべてのものを衆生が求めるままに、自在に与えることが出来て、特に福徳と智慧を授けて下さる、極まりない力をもっているということで「虚空蔵菩薩」と名づけられました。又この虚空蔵菩薩を念ずれば記憶力が良くなって忘れず、何でも願いが叶えられると教え示します。
ご真言 オンバザラアラタンノウオンタラクソワカ 縁日毎月13日
文殊菩薩(卯歳守り本尊)
「三人よれば文殊の智慧」といわれるように、文殊菩薩は「妙徳」「妙吉祥」「妙楽」ともいわれ、モンジュシュリーといって漢字に当てまめると、「文殊師利」「曼殊室利」で、お釈迦様の脇に侍している仏様として、白象に乗った普賢菩薩と共に、獅子の上に乗ってお釈迦様の左側に侍しています。脇侍仏というのは、仏様のお徳を象徴したもので、文殊菩薩は仏様の智慧の徳を顕わしております。この智慧は私たちがふだん使っている知識とか智恵と違い、世の中の根本を観る智慧で仏様の覚りとも言えます。災難や艱難など山坂の多い人生では あるけれども、文殊菩薩の智慧によって歩んで行けばそれが無くなる。人間の利己的な浅はかな智恵でもって生きてゆくから、災難や不幸を作って行くのである。文殊菩薩の智恵によってゆけば災難や不幸も幸せにつながって行く、それらを乗り越えることによって、人生の誠の相がどんなものであるか覚らされ、そのお蔭で真実の事が分かる。不幸や苦しみのおかげで本当の幸せを知ると、それまでの苦の茨や枳殻(からたち)も美しい花の姿となって行くのであると教え示します。
ご真言 オンアラハシャノウ 縁日毎月25日
普賢菩薩(辰歳・巳歳/守り本尊)
お釈迦様の脇侍として右側に控えているのが普賢菩薩です。文殊菩薩は仏様の智慧を象徴しているのに対して、普賢菩薩は仏様の慈悲行を象徴しています。普賢菩薩はサマンタ・バドラという名で、それを「遍吉(へんきつ)」とか「普賢」と訳します。「遍吉(へんきつ)」とは「みんなのしあわせ」を願っている普賢菩薩の願いであり、「普賢」の”あまねくさとれるもの”といいます。「賢」とは善い行いをする普賢菩薩の慈悲の心をもととしたすべての「行」を示しております。文殊菩薩が獅子の上に乗っているのに対して、普賢菩薩は「六牙の白象」に乗っています。象は獅子と同じようにインドにおいて最も優れた動物であり、又それが持っているところの「威力」は素晴らしく、優れた大いなる力を表象しております。そしてその素晴らしい力にあふれている6っ本の牙は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という仏教で大事にしている6つの行いを指しています。
ご真言 オンサンマヤサトバン 縁日毎月24日
勢至菩薩(午歳/守り本尊)
文殊菩薩と普賢菩薩は釈迦如来の脇侍として使える菩薩ならば、西方極楽浄土におられる阿弥陀様に仕える菩薩が観音菩薩と勢至菩薩です。勢至菩薩は「得大勢」「得大勢至」「大精進」とも言われます。その名の由来は、智慧の光明がさかんで、一切を照らし、迷いから離れさす事の力が大きいので、「大勢至」と名づけられたと言われます。勢至菩薩の智慧は人々を迷いから離れさせて救わずにはおかないという、意思力の重さがあるので「大勢至」といわれます。阿弥陀如来の慈悲と智力を象徴します。ことにこの勢至菩薩は、観音 様と共に、阿弥陀様のおともをして、人がご臨終の時、他の二十五菩薩と共に来迎して密厳国土に連れていっ下さる仏様です。観音様と勢至菩薩との見分け方は、観音様は宝冠の所に「化仏」と言って阿弥陀仏を戴いていますが、勢至菩薩は髻(もとどり)の中に宝瓶をつけています。そして手にはまだ開華していない「未敷蓮華」を持ち、虚心合掌(両掌をいくらかふくらませた型の合掌)をしています。
ご真言 オンサンザンザンサクソワカ 縁日毎月23日
大日如来(未歳・申歳/守り本尊)
大日如来とは、宇宙の総て、人間、自然、天地総ての「本質」を仏格化した仏様です。真言宗では総ご本尊様として、この大日如来から総てのものとして現れている仏様として教え示します。釈迦如来、阿弥陀如来、観音様、お不動様などの総てこの大日如来のはたらきを顕わすためにある仏様であって、その根本は大日如来であります。総てのものの本質である大日如来そのものを、色や形で表すことはできませんが、しかし人間にとっては形や色が無くてはどうにも分からなくなってしまうので、仏様の姿で表すことになり ました。ただ如来と言う時は、お釈迦様、阿弥陀様、お薬師様にしてもお衣を着けただけでお姿は同じです。そこで手の印相、持ち物でそれぞれの如来様を現して降ります。大日如来はその中の中心となる位にあるということを表現するために宝冠をつけ、髪は宝髪に結び、胸に瓔珞を飾り、腕輪をつけて菩薩のお姿をしております。
ご真言 オンバザラダドバン 縁日毎月8日
不動明王(酉歳/守り本尊)
ご真言 ノウマクサマンダバザラダンカン 縁日毎月28日
阿弥陀如来(戌歳・亥歳/守り本尊)
南無阿弥陀仏と念仏の代名詞になっている阿弥陀如来は、インドの言葉をそのまま移した物で「無量」と言う意味です。仏様の光明が無量であるのでアミダ(無量寿)と言います。仏様の智慧(光)も慈悲(寿)も限りなくそそがれているという事を顕わしているわけです。それで阿弥陀様を「無量寿如来」「不可思議光如来」「尽十方無碍光仏」ともいいます。数え切れない遠い過去に法蔵比丘と言う王位を捨てた修行者が、世の人々の苦しみを無くすために、一切の仏国土より優れた浄土を建立したいと言う願いをおこされ、自分が仏となって、人々の苦しみを救いその浄土に往生させて成仏させたいという事で、長い間徳行を積まれついに、西方10万億土の彼方に安楽世界の極楽浄土を建立しました。この極楽浄土は、黄金を初め七つの宝で作られたまばゆいばかりの宮殿や池に囲まれ、宝石で出来ている樹木が生い茂っています。池には色々な蓮の華が咲き乱れ、天の楽器が常に奏でられ、白鳥や孔雀などが舞い遊び、夜と昼に三度ずつ天の曼荼羅華の雨が降ってきます。香や華鬘、衣服、傘、楽器、装飾品、宮殿など欲しいだけ与えられ、食物は摂らなくても身も心も満足出来、そしていつも極楽に阿弥陀様がいて法を説いて折られ、そこに住んでいる者は身体の苦しみも、心の悩みも無くて、ただ安楽なものがあると言う理想郷であります。
ご真言 オンアミリタテイセイカラウン 縁日毎月15日
(一乗院本堂内に安置・参考図書/仏様の履歴書より抜粋)
修行大師
弘法大師様と興教大師様の修行のお姿です。
一乗院蔵什器法物
出山釈迦図(室町時代作)
閻魔王庁図(桃山時代後期作)
板碑
-
観音図
-
般若十六善神図
-
涅槃図
-
三界萬霊塔
-
横山久子先生顕彰碑
-
朝霞第一小学校発祥の地
横山久子先生は、一乗院に膝折学校が併設されていた時に、県内では初めてといっていい位の女性教師として、教鞭をとっていた先生であります。惜しくも32歳で急逝してしまい、先生の才能を惜しみ。現在の三鷹市の小学校、西東京(保谷市)小学校、新座市の小学校の校長先生等が諮って、顕彰碑として建立されたものである。因みに、一乗院の客殿に膝折学校が置かれ30年に亘って教育がなされた。(現在の朝霞第一小学校発祥の地)